子どもへの告知 2
自分でがんを自覚したのは2月のある朝だった。
ここには詳しく書かないが、自覚症状はないけれど直感で気付いていた。
もともと予約していた健康診断が3月だったから、そのまま日々を過ごし、「便潜血」の結果に「やっぱりなー」というのが、素直な感想。
大腸カメラでがんを確認したものの、「この大きさでは1泊しないと切除できない」と言うことで、その日は断念。
改めて日にちを決め、子どもたちを知人にお願いし、1泊入院で切除した。
この時には、子どもたちに「がん」は告知していない。
大腸がんは切除すれば、以後は経過観察ということも多いのは素人の私でもわかっていたから、必要以上に騒ぎ立てる必要はないと思い、この時点では父ちゃんと姉。わずか数人の友人、知人にしか話さなかった。
「お腹のできもの取ってくるから」
と、娘2人に伝え、親しくしていた知人に3人を預けた。
娘2人は、まるでお泊まり会みたいに楽しんだが、憲宗には詳しい事情を伝えられないままだったので、大きな不安を与えてしまい、たった一晩の間にストレスで約1センチ四方の髪が抜けてしまっていた。
この頃の私と憲宗はコミュニケーションのほとんどが手探りで、目に見えない物事を、まだお互いに伝える手段も知る術もないような 段階だった。
8月の入院は9日間以上を予定。
さすがに3人の子どもを誰かに頼む訳にはいかない。とは言え、預け先がなければ手術は受けられない。
入院の話が決まり診察を終えた後、病院から自宅近くの児童養護施設に直行。
「3人お願いできますか!?」
私としては、3人バラバラにだけはしたくない。
どうか、憲宗も一緒に3人一緒に過ごしさせてあげたい。でも、聞こえないことを理由に断られたらどうしようもない。頼み込んでどうにかなるだろうか。。
そんな私の心配をよそに
「大丈夫です。3人とも受け入れますから」
間髪いれずに返ってきたその言葉に、どれほど安心しただろうか。
後になって、施設に預けたことを非難もされたが、それじゃ一体、誰が3人の面倒を見るのか。
施設なら3人一緒に3食を食べて、お風呂に入り、布団で眠れる。友達もいる。お世話になる誰かが過労で倒れる心配もない。
寂しいのは当たり前。
それは私が覚悟を持って受け止めればいい。
「お父さんは?」と、聞かれたこともあったが、男の人には働き続けてほしいと言うのが自営業の妻である私の希望だった。
仕事を休んで、慣れない家事と子育てに奮闘されても、病院の私は心配で治るものも治らない。収入が途切れれば死活問題にもなる。
だから、私たち夫婦にとってこれほど安心できる預け先はなかったのだ。それに、自宅から車でたったの5分という距離がまた、安心感を増幅させたのかもしれない。
ただ、施設に泊まる事に、長女は泣いて取り乱した。予想通りの反応だったので、入院のその日までゆっくり不安を取り除いていくつもりだった。
次女は、山登りやお泊まり会などであちこちに泊まる事に慣れていたため、特段不安がる様子もなく、同じクラスの施設のお友達と過ごすことを楽しみにしていた。
まだ2年生。幼さのせいだったとも思う。
問題は憲宗。
一晩、私と離れて髪の毛が抜けるのだから、どうにかして事情を伝えなければいけない。
日にちの感覚はまだ「明日」ということしかわからないし、伝えられない。そもそも入院期間も「予定」なので、いつ退院するのかは、その時点では伝えられないのだ。
だからとにかく事情を伝えること。
この子の性格上、事の大きさを理解すれば納得することはわかっていた。感覚のするどさはピカイチ。
いざという時、一番手がかからない。
憲宗の力を信じて見せた絵カードがこれ。
要するに、この時点で憲宗への「告知」となる。