子どもへの告知 その後
さて、母ちゃんががんだと知った子どもたち。
その後はどんな様子だったかと言うと。。。
長女はテレビでがんの特番があると「母ちゃん見る?」なんて、録画してくれていた。
きっと自分でも興味があったのだろうと思う。
テレビを見て、次女は
「母ちゃんは乳がん?肺がん?」
などと聞いて、少しずつ情報を増やし、自分の中で理解を深めていった様子だった。
告知の次に子どもたちにとって負担だったのは、児童養護施設のショートステイ。
気を失うほど副作用が重かった私の状態では、子どもたちを自宅で過ごさせることは出来なかった。
子ども達が自宅にいれば、日替わりで家事のフォローに来てくれる友人たちの負担も増える。
みんな自分の子育てや仕事があるなかで、私たち家族を支えてくれていた。
木曜日に抗がん剤を首から下げて帰宅すると、憲宗も覚悟する。
おかしな話だが、目に見えるということはありがたい。
副作用の酷い土日目がけて1泊あるいは2泊で、半年間ショートステイを繰り返した。
憲宗には着替えの入ったリュックの他に、幼稚園の先生から頂いた大好きなカーズのぬいぐるみを持たせ、それが施設へ行く合図だった。
最初は喜んで施設へ行っていた次女も、回数を重ねると足取りが重く、どうにか家にいられないかと交渉してくる。
最初、泣いて取り乱していた長女も我慢できずに涙目。。。
そんな二人を背中で引っ張ったのは憲宗だった。
イヤな物はイヤだと、絶対に受け入れることのない憲宗。
ありったけの抵抗をしても、現実を変えられないことを一番理解していた憲宗。
リュックとぬいぐるみを見るなり、振り返りもせず玄関を出て行く。
涙を拭きながら追いかける長女と次女。
「3人一緒だから大丈夫。憲宗を頼むね」
なんて、実は憲宗の存在に救われていたのは娘たちだったということは知っていたが、弟を守る気持ちが、娘たちの唯一の覚悟だったことを知ってた私は、あえてそう送り出した。
最後の治療。
最後のショートステイ。
憲宗に「最後」の手話単語で、伝わったかどうか確信のないまま送り出した。
帰宅した夜。
いつもより大きな声ではしゃぐ娘たち。
そして、幼いころから夜は手のかからない憲宗が、真夜中、泣きに泣いた。
張り詰めていた小さな心が解けたのだろう。
そして、もう子どもたちを手放すことはないんだと、憲宗を抱いて、私も一緒に泣きに泣いた。
たくさんの方が、幼い子供たちをも支えてくれました。
友人たちが「子どもには甘えさせよう」と、頻繁に自宅に来ては洗いものや洗濯物を片づけてくれた。
代わる代わる「母」となり、子どもらしくさせてくれた。
こうして、子どもたちも現実を乗り越えることができたのです。
きっと、この貴重な経験はこの子たちが大人になった時の「何か」になり、「誰か」の「いのち」を支える力になると信じています。
私の闘病に関わった全ての方に感謝。
ありきたりだけど、この言葉しか出てきません。
「ありがとう」