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ちゃんと今を生きてるかい?

耳が聞こえず言葉を持たない息子が教えてくれたこと。「未知数なぼくたち」絵会話アーティスト武田憲宗の活動や家族の日常を記録。金髪で、がんサバイバーの母ちゃんは気合を入れて子育て中。

特別支援学校 ④ 転学

特別支援学校

ボスの一言から始まった転学計画!!

異端児的な彼女の存在、彼女に憲宗を預けてみたいと思っていた。

だからと言って、幼稚園からストレートで特別支援学級へ通うのは厳しかったし。
なにせきちんと椅子に腰かけているところを、あまり見たことがない。。。
プールを楽しんだあとは日向で昼寝しちゃってるしね、先生が気がつくと園庭のフェンスに登ってる。。。(← けっこう高いって言う)
まだまだ「人間」と呼べるには遠かった。。。

そんな憲宗を特別支援学校での環境が「人間」らしく成長させてくれたおかげで、今の憲宗ならボスに託せると。私の中で転学が現実的になった。

 

幼稚園での1年間、そして特別支援学校での1年間は大きなステップだった。

特別支援学校の担任K先生は憲宗に接するその感覚が、完璧だった。

厳しさも、優しさも。甘やかしすぎることなく憲宗自身をしっかりと認め接してくれた。

これよ、これ!これー!!
私が憲宗に求めていた「小学校生活」とは!!これなのよーー!!

サポートするN先生は、憲宗のボケに完璧なほど突っ込みを入れてくれるおかげで、笑いが絶えなかった。

そして、エネルギーの塊みたいなコーディネーターのМ先生。

今でも私たちをサポートし、転学の時にも私の背中を強く押してくれた。

みんな淋しいねーと言いながらも、憲宗の将来を考え笑顔で送り出してくれた。

反対していた唯一の先生の言葉もまた、私たちを思うゆえ。

なぜなら、前例がなかったのだ。

支援級から支援学校への転学は当たり前にあるものの、その逆というのは長い歴史のなかでも初めてだったそうだ。

ゴクリ。

事実を知って、改めて気が引き締まった。

 

最後の日、全校生徒の前で立派に挨拶した憲宗。

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なんせ目立つの大好きだから。超優等生(笑)

普段からやれよ。

 

教室で、お友達や先生にもお別れの挨拶。

スクールバスが出て、静かになった校舎をあとにしようとしたら。。。

たくさんの先生、職員の方が集まって手と手を取り、突然!私たちの目の前にアーチが出来た!!

「頑張れー!!」

「頑張れー!!」

突然のことで堪える間もなく、涙が溢れた。

一番大きな声で送り出してくれたのは。。その声の主は、最後まで反対していたあの先生だった。

 

ありがとう。

私たちの味方はこんなにたくさんいるんだ。

特別支援学校 ③ 転学

特別支援学校

以前 ② まで書いていたと言うのに。。特別支援学校についてのブログは間が空いてしまった。

懐かしいなー。「20世紀少年」(笑)

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あれよあれよと話が進んだ、憲宗の転学。

はっきり言って、私の頑張りで手に入れた と声を 大 にして言いたい!!

せっかく地域に溶け込むように育ててきたのに、ここで忘れられてたまるかと半ば意地になって地域の子ども達と絡むように行動した。

若干ストーカーちっく。

 

姉2人がいる事は恵まれていたと思う。

小学校の行事やらなにやら、全て把握してるからね。

 

午前授業の日は午後から近くの公園に行って、一緒に遊んだ。

参観日には憲宗を連れて行った。

いきなり教壇に立ち、教室ジャックは当たり前。

子どもたちが挙手する様子を見ると、手の甲を前にして人差し指を突き上げる。

子ども達も、周りの保護者も 「あ~見たんだ」 と、軽く吹き出す。

そう、2日前ロードショウは『20世紀少年』。

でもね、いじめについての授業中だから(汗)

トモダチ なんてやってる時じゃないから(汗)

 

まぁ、簡単に忘れられるほど印象の薄い子ではないのだが。。。

授業が終わると、次女が憲宗を抱えて教室に入る。

「弟なんだ!耳が聞こえないの!!」

 

恥ずかしい思いも、嫌な思いもいっぱいしてきたはずのに、それでも自分の弟だと堂々と紹介している姿は、素直に嬉しかった。

隠しながら育ててたまるか。

憲宗が裸で叫ぼうがおしっこ攻撃をかまそうが、下を向かずに育ててきて良かったとこの時ほど思ったことはない。

 

そして、帰り際に特別支援教室のボスからお声がかかる。

「うちにこないか?」

と。

 

ん??

スカウト(笑)???

まさかのテレビ東京! 密着取材!! 後編

がん 長女と次女の成長 取材

迎えた取材日。

ほんのわずかな打ち合わせを済ませ、先ずは手話サークルへ。

放送ではカットされていたけれど、私の日常を撮影したいとのことで手話サークルでの学習風景も撮影していた。

帰宅して私のインタビュー。

子ども達の話に、目を赤くするプロデューサー。

カメラが止まると鼻をかむ取材スタッフ。

今日初めて会ったのに、どんどん心が近くなる。

 

そうしていよいよ憲宗のお迎え時間(笑)

予想通りのリアクションに爆笑のスタッフ。

ラムネの入ってたマイクを片手にご機嫌で自宅までしゃべりっぱなしの憲宗。

かばんを置いたら公園でひと遊び。どうやら今日は、熊撃ちするってよ。

 

そうして夕方、張り切ってインタビューを受けた父ちゃん。

残念ながら、オーーーール カットォォォォ(爆)

それから次女が帰宅。長女も帰宅。

緊張しながらインタビューを受けてくれて、ありがとう。

そうして夕飯の家族団らんシーン。

ご飯支度は前日に仕込み、ご飯にかけるだけのイクラ丼でごまかした。

テーブルを囲むとお祈りを始める父ちゃん。爆笑の取材クルー。

ちょっと!大家族の日常じゃないんだからさ!一応テーマはがんだから!編集大変だろう!と、冷や汗の私。

 

そんなこんなで撮影終了~。

平日の取材なので7時を目処に切り上げて欲しいと、前もってこちらから伝えていたのになんだか淋しい。 

終わっちゃったー。

終わっちゃったよー。

なんて楽しい一日だっただろう!!!

そうして感じた子ども達の成長!!!

 

「かーちゃんががんになって、どう思ったの?」

なんて、改めて聞くことなんて一度もなかった。

内気な二人が「構わないよ」と言って、自ら受けてくれたインタビュー。その姿に逞しさも感じた。

当時の怖さを思い出して、涙目で答えていた長女。

幼かった次女は「別に、平気だった。」腰を抜かすような予想外の答え。

 

そうか。

でもそれは強がりでも、嘘でもないのかも知れない。

不安で怖くてどうしようもない子どもたちに、たくさんの人が寄り添ってくれた。

その小さな心が孤独を感じないように、たくさんの、たくさんの人がまるで家族のように接してくれた結果が

 

「お母さんががんになっても、乗り越えられない現実ではない」

 

そう、物語っているんだと。

だから、子どもたちはトラウマを抱える事もなく「平気だった」と言えるんだろうと思えた。

やっぱり人の力って、とてつもなく大きい。

そしてとってもあったかい。

まさかのテレビ東京! 密着取材!! 前編

がん 取材

とにかく、それは突然だった。

最初のメールが届いたのは水曜日の夕方。病院スタッフから。

その時点で、私の心は取材を引き受けようと、決まっていたんだと思う。

偶然にも次の日は私の術後5年目の診察日。クリアなら卒業。

結果は大丈夫とは思いながらも、まずは診察を終えてから返事をしようとご飯支度を続けた。

 

翌日、無事に検査はクリアして、そのままメールの送り主であるスタッフを尋ねた。

もう5年も経っている患者では、興味ないかな??

がっつり治療中の患者さんを探しているのかもしれないしね。

スタッフには引き受ける事と、私では役不足だと局から断られるかも知れないと言うことも伝え、その日はそのまま憲宗の参観へ向かった。
今日はプール授業。一緒に泳ぐのだ―♪

 

テレビ局の担当ディレクターからメールが入ったのは、金曜日の夕方だった。

憲宗への伝え方、告知の仕方が今まで聞いたことがない例だと、是非とも取材したいとのことだった。

そして、次の水曜日には病院へ取材に行くので、前日の火曜日か後日の木曜日に取材したいとのことだった。しかも、一日を密着。。。

 

「えっ!?」

「あと、4日しかないの???」

「大掃除、間に合う???」 ← これ一番重要!

 

ばかだな、私。

ばかは死んでも治らないって、あれってホントなんだと痛感。

引き受けちゃったよね。

 

そうして、我が家全国放送のための大掃除と来て、ここで大活躍したのはまさかの父ちゃん!!
先頭切って大掃除!!

なんたって年末の大掃除に奴が参加したのは、数年前の1度限り。

子どもが床に水をこぼしたら、扇風機で乾燥させる。。。

そんな奴ですからねー。

こんだけ頑張ってくれたら、これまでのことはチャラにしてあげようか?
いやいや、このぐらいで騙されんぞー、なんて思いながらもケルヒャー大活躍で、着々と大掃除は進む!!

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抗がん剤治療 後編

がん

気がつくと数カ月放置されていたブログ。。。再開?

 

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正月明け、いつもより休薬期間が長かったのにまさかの白血球減少。

どうにか治療にこぎ着けたものの

「それだけ危険な治療なの。」

と、主治医から釘をさされた。

 

そうして残り3回となったとき、肝機能の悪化と副作用の重さで治療は流れる。

「このままの数値が続いたら、今後の治療は全て中止になるかも知れない。」

そう、主治医に言われた。

時々見せる鋭い目。 

 

リンパ転移がわかってからも、私の心は常にニュートラルでいられた。

主治医はいつ会っても変らず、疲れた顔も、機嫌の悪い顔も見たことが無い。

そんな主治医の精神的なタフさには、とても救われた。

でももう、私は疲れていた。

中止になってもいいやー。。。なんて。

 

ところが、「治療中止」の言葉を聞いた夫や友人たちの顔色が変わるのを見て、心底、申し訳なく思った。

中止を願った自分をバカだと思った。

ここまで助けてもらって、途中で終える訳にはいかない!

みんなの存在が、治療に向き合う最後の支えとなった。

 

なるようになれー!

体力なんか、とっっっくにない。

精神力はちょっとだけ。

階段を登るときは、子どもたちや夫がお尻を押し上げてくれた。

振り絞ると言うか、やってしまえーみたいな、そんな感じの最終章は、やはり副作用が酷すぎて再度減量しての治療。

勢いで終えた。

終わった。。。

 

そして、手足には強烈な痛みと痺れが襲いかかり、歩くことすら満足に出来ない。

治療を終えて精神的に最も開放的な状況なのに、体は反比例してる。

このままでは私の心が持たないと思い、夫に頼み、子どもたちを連れてプールの楽しめるホテルへ宿泊。子ども達の心と体を解放させた。

 

油断してた。

12回分の抗がん剤が体内に蓄積してる今、体は一番しんどいのだ。

 

それでも、清々しかった。

一人だったら絶対に耐えられなかった治療。

家族だけでも、押しつぶされていただろう。

私を支える家族。

私と家族を支えるたくさんの仲間。

これだけの支えがなければ、こうして終えることは出来なかった。

ただただ感謝が溢れて来る。

 

その後、2年近くは抗がん剤の影響を感じながら思うように動けぬ日々を過ごしていた。

やっと抜けかたと思える日も来たけれど、相変わらず冷たい物を口にすると痛い。ビールをごくごく飲むことも出来なければ、かき氷も食べられない。

それでも出来る事はたくさんあると言うことは有り難い。

私の闘病なんか、闘病と言えるほどの体験ではないけれど、幼い子を抱え、障害ある子を抱えての治療と言うのはやはり大変でした。

その経験には価値があるかな?と。

意地になって一人でがむしゃらに子育てしてた自分に「他人を頼りなさい」と言うメッセージだったのかも知れない。

 

まだまだ自分自身は子育てでいっぱいいっぱいだけれど、誰かのお役に立てることがあるなら嬉しいし、不自由なく動く体があるのだから、出来る事には楽しみながらトライして行きたいと思う。

そんな訳で、テレビの密着取材も受けちゃったのだ。

せっかく生きてるのだから、生きてる事を楽しまなくっちゃね。

抗がん剤治療 中編

がん

イメンドを服用し抗がん剤を減量しての治療スタイルが決まった。

治療は木曜日。

朝は自宅から車で50分離れた幼稚園に憲宗を送り、そのまま病院へ。

血液検査、診察そして抗がん剤

病院を出るのは夕方になり、それから憲宗をお迎えに行く。

自宅に帰ると、お弁当屋さんで働く友人から家族5人分のお弁当が差し入れされている。

有り難く頂く。

私が抗がん剤のボトルを首から下げてる姿に、子ども達も治療の始まりを覚悟する。

 

金曜の朝は体を引きずり、どうにか憲宗を幼稚園へ。

自宅へ帰ると、そのまま布団にもぐりこんだ。

帰りの憲宗の送迎は友人たちが引き受けてくれていた。

土日、子ども達は児童養護施設

私は副作用のまっただ中。

看護師の友人が様子を見に来て、茶碗を洗い掃除機をかけてくれた。

月曜、火曜は子ども達も帰宅。山もりのおかずを手に、友人が来て家事もしてくれた。

彼女のお味噌汁とサラダが、私の回復食。

 

そうして、水曜日には床上げ(笑)

そんなルーティン生活も出来あがった。

 

連休前には、パン屋の友人からたくさんのパンが届いた。

仲人さんからは一升分の山菜おこわ。

買い物。

子どもの病院の付き添い。

習い事。

送迎。

 

「私がこれを引き受けるよ」と、次々とたくさんの友達が手を差し伸べてくれた。

施設が利用できない時は、子どもたちを泊めてもくれた。

それだけでも大変なことなのに、動物園や水族館へと出掛け、子ども達に息抜きまでさせてくれていた。

「子どもなんだから、甘えさせてあげよう」

そう言って、代わる代わるお母さんになってくれた。

まるで「チーム武田」。

 

「何かあったら言ってね」という言葉より、具体的に何が出来るかを伝えてくれたため、私もお願いしやすかった。

それはとても救われたことだった。

皆それぞれに家族がいて生活がある中で、実のところ何を頼んで良いのかがわからない場合がある。

遠慮ではない。わからないんだ。

 

たくさんの人に助けられ、支えられて私の治療は順調に進んでいった。

抗がん剤治療 前編

がん

友人の手厚いサポートを受け、少しだけ前向きになれた私は病院へ向かった。

「えっ?ホントに??」

私の副作用を聞いて、目を丸くする主治医。

「副作用を和らげる薬があるから。」

と、処方されたのは吐き気止めのナゼア。

それと、デカドロン錠と言う、まるでドクロベエにお仕置きを受けそうな薬。

間髪いれずに切り返してきた主治医の言葉を聞いて、改めて「やるしかないんだな」と覚悟する。

 

たけーな。

値段が値段だけに、効くだろうと思ったが、そうは問屋が卸さなかった2回目の治療。

高いナゼアを飲んでも止まらない嘔吐。 

脱水の為に点滴を打ちに行った近くのクリニックの女医さんには

「貴女!こんな酷い副作用で!!このまま治療を続けるつもり!?」

と、迫られる始末。

まともに歩くことすら出来ないのだから、そう言われても仕方ない。

 

そんな状況に、どうだと言わんばかりに主治医が処方した薬。その値段にアゴが外れた。

2錠で5000円!!!

イメンドと言う名の薬に、処方箋を見て驚いた薬剤師さんが憐れむように私の顔を見る。

おいおい。そんな憐れむように見ないでくれよー。

私はまだまだ大丈夫。

 

と、挑んだ3回目は、それほど吐くことはなかったが

「吐いた方がマシだった」

と言う私の感想と相変わらず重い副作用のため、ついに抗がん剤は減量となる。

 

そして4回目の時に、治療は全部で12回、その日を含めて残り9回だと言うことを初めて主治医から知らされた。

「先を見ちゃダメだよ。」と。

 

手術が終わり、リンパ転移がわかり、あれよあれよとなだれ込む様に治療が始まった。

世の中には「抗がん剤で殺される」と、うたい文句が溢れている。

決して流された訳ではない。

意見を言えなかった訳でもない。

資料を渡され、丁寧な説明は受けていたものの、それを全て完璧に理解していたとは言えない(だって、すごい量だもの)中で、しんどかったけど、きつかったけど、この選択を疑うことはなかった。

この病院で、この先生となら治療出来る。

そう思っていた。

 

そしてこの頃、同級生Kのことを、やたらと思い出していた。

医師の国家試験に受かったその年に、事故で亡くなったK。

あいつなら、絶対に信頼されるお医者さんになっていたはずなのにな。 

Kを想いながら私が考えていたのは、三児の母親として、どう生きるのか?と、言うことだった。

 

難しい選択を迫られた時の最後の切り札は、信頼関係なんだろうと思うし、もう一つ私が信じたのは、自分の直感。

ただそれだけ。


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